どこに立って希望を観るか
自分はどんな人だろう?
日々を絶望して生きている人が居て、日々を輝いて生きている人が居たとする。
両極を書いた。けれど色んなグラデーションを帯びた人が、あなたの周りにも、あなたの中にも居ると思う。
たとえ、今、絶望していようと絶望の人が居るのではないと思う。絶望を抱いている人がいるだけだ。絶望とその人は同じではない。
何度も書くようだが、自分の経験の中で言うと、ささやかに絶望していた時期がぼくにはあった。その時ぼくは暗い人間なんだと思って居たが、どうやら違ったようだ。
絶望は抱いていただけだった。絶望の中から指をくわえてみていた希望が、いつしか希望の中から希望をみれるようになっていった。
絶望からみていた希望と、希望から見る希望はまた違うものだった。
絶望をくぐることで、希望という明かりを見たかったのだ。
明かりにあふれていることを感じたくて、自分を暗くしたのだ。
絶望をお勧めしているのではなくて、ただ通過点だということを知って欲しい。
通過した今、明かりを増した自分がいる。通過しなくても明かりだと知れたら幸せだと思う。
絶望が、あなたではない。
僕らはもともと光だ。どんなにその光をしぼめようが光には変わりない。
希望に立って、希望をみる。
飛んで陽にいる夏の蝶
生物の授業で、走光性というのを習う。太陽の光に向かって伸びる植物や、夜の街灯に集まる蛾や虫たち。光に向かって移動するのを正の走光性という。
そのことを生物の授業や大学で習っていたぼくが驚くことがあった。
愛に溢れた年上の方を送迎する機会が何度かあった。夏の日差しが強い中、その方を助手席に乗せ運転した。運転していて、とあることに気がつく。走る車に向かって蝶が飛んでくる。しかも、助手席のフロントガラスへ向けて。何度も。40~50キロで走っている車に蝶や蛾が飛び込んでくるのが止まることはなかった。送迎する度にそれは起きた。夜、運転したその方のフロントガラスには数え切れないほど飛び込んだ後が残っていた。飛び込んでくる蝶や蛾に対し、送迎している時運転しながらも僕は驚きの眼でみていた。その人の光に蝶や蛾は飛び込んで来ていた。やっぱり、光なんだ。人は光なんだ。
人は光である。
これはまぎれもない事実としてぼくのなかに焼きついた。身をていしてそれを教えてくれた蝶や蛾たちにはこころから感謝している。
日々を輝いて生きている人、とはどういう人だろう。
そして、輝くとはどういうことだろう。
あなたはどんな時に輝くだろうか。
答えは同じではないだろうし、答えは変わっていくものかもしれない。
ぼくもそれを自分に問いかけている日々であります。
お〜!こんな色も自分にはあるのかっ!
この色が好きだなぁ〜!
混ぜても面白いなぁ〜!
なんて
真っ白いキャンパスに描くように
生きていたい
High Five✨🙌✨🌈🌈🌈