産みのナンチャラ/ステレオさんありがとう
近寄ってきた少女と絵を描く。肌の色に黒を選んだところを見て、外国に来たんだ!と気付く。in パプアニューギニア🇵🇬
産んでくれてありがとう
1990年の7月13日金曜日に僕は産まれて来た。あれから、28年になる。僕を取り上げた看護師達は13日の金曜日だというこで、映画のジェイソンのことをしきりに話していたという。僕にはさっぱり何のことかわからない。
この13日、誕生日に仕事をしていて、はッ!と気づく。最近のワサワサは誕生日が近いからだったー!と1人で納得し笑いがこぼれる。
やんばるの生活で色々な人と関わり、自分を深めて行く中で、誕生日が近くなると変になる場合がある。というのを知った。
自ら母を選び、お腹の中に宿り、胎内で母と色んなことを共有する内に産まれることが怖くなった。外に踏み出す一歩の勇気を育んでいる時。この不安や葛藤を無意識にその誕生日が近くなると思い出すのだ。そして、落ち着かなくなる。そんな自分が"居た"のを気づけただけで落ち着いた。
そして、1人、その過去の物語を上書き更新していく。
そういう過去があったね。そして今、そんな過去があったから素敵な経験も喜びも噛みしめることが出来る。産まれて来て良かった〜!
と、思い出したことを1つ1つ丁寧に自分の実になった大切な経験として変換していく。
経験に良し、悪しを付けてジャッジするのは自分をバラバラにしていくことだ。良い経験はもちろん、例え悪いと思える経験でさえも今のあなたを創る上で大切なピースだ。バラバラにしてあったピースを1つ1つ実になった大切な自分の一部として統合していく。そして、これからは自分にどうさせたいのか?という今、未来へ繋げていく。
朝起きてすぐ、両親に「ありがとう」と伝え握手を交わした。
感謝が出来る。これが親離れなのかもしれない。勇気が出ない、外に出たくないは元を辿れば、母の胎内の愛の中から出たくない。という所に行き着く気がしている。
自分の安心、愛が母の胎内にしかない。というのは、母の状態に自分の状態は左右されるということ。そして、いつの間にか他の誰かに投影して左右される状態を続けたり。依存だ。
ただ、今、思えるのは母の外にも愛に溢れた世界が在るという事実。あなたの中に愛は在るという事実。
自立とは精神面において、自分の中に愛があり安心もある。ということなのではないか。自由もそこに宿るのではないか。
忘れ去られたステレオを前に
家の掃除は続いております。兎に角、要らないものを片付けたかった僕は、テレビの横に使われるでもなく、ただホコリをかぶった大・中のステレオに目をつけた。父にキレイにして売りに行っていいか?と聞くと、怒り出した。いつか手入れして使いたいんだと。大切な物なんだと。
不思議に想う。
結婚したての頃、買った思い出の詰まったステレオ。大切なはずが、ホコリを被り、使われもせず20数年、そこに何をするでもなくたたずんでいる。
いつかはしたい。その"いつか"は、いつだろう。
大切な物。その大切とは、どういうことだろう。
"したい"を出来る時間を作り、"大切"を大切にする行動に結び付ける。
自分の想い、行動を大切にして欲しくて、置いてけぼりにされたそのステレオをキレイにし、アンプに繋ぎ、音を出した。
ステレオを掃除する中で、寂しさと怒りが出て来た。なんで大切にしてくれないだー!というステレオの寂しさと、そこに親にほっとかれたら寂しいという自分の想いが重なった。
20数年ぶりの音に、父がニコニコして来た。そんな父に、なんで大切にしてくれないんだー!と抑え気味にグチる。父は罪悪感を抱く。しまった。父に喜んで欲しくてしたのに。子供か!オレはッ!!!子供だッた!!!!
その日、両親とそのステレオ4つから音を出して「家族はつらいよ」という映画を観た。
笑顔の2人を見て、やって良かったわ〜と思う。
大切に想う、とはどういう状態だろうか。
愛おしいと似ている気がする。
大切な物を大切にしていない、けれど手放さないのは執着なのではないだろうか。
愛おしいと想う、そのあなたの想いを尊重しているだろうか?
その想いを自覚し、行動することが幸せに気付くことではないだろうか。
秘密兵器だと言われ続けて、
ホコリを被りながらベンチに座らせ続けるのか、
バッターボックスに立って輝くチャンスを創るのかは、
持ち主である自分次第だ。
そうだ、掃除をしよう!
今日が始まり🌈🌈🌈