夢の勘違い・まなざし
久しぶりの快晴が心地良い。
将来の夢の勘違い
子供も大人も描く夢。小学4年生の頃から僕は、将来の夢は海洋学者だと決めていた。理由はシンプルで、海が好きで、釣りが好きだから。これだ!と決めたら突き進む一本気だった僕は、ずっとその想いを持ち続け、行くと決めていた念願の琉球大学の海洋生物学科生物系という海っ!生物っ!海っ!した世界に入った。
入ってみて、周りの海好き具合に驚いた。マイ魚図鑑を持って、その図鑑に書かれている魚の名前をマーカーを入れて記憶している人がいたり。講義の前に海にダイビングに行って、講義の後にもダイビングに行く海クレイジーな人たち。「あれ、おれ、全然、海クレイジーじゃないやッ!!!」と気がついてからは、気後れして海が好きですなんて言えなくなっていった。
夢は勘違いしても、何度変わっても良いと個人的に思っている。ただ無理してまで持とうとしなくても良いとも思っている。今までを否定する必要も、今を否定する必要もない。これからを、この瞬間からをどう生きるか。なのではないか。
最近になって自分の夢の勘違いの謎が解けた。
海が好きで、釣りが好きだった。そこには父の姿があった。父と釣りを始めたのが小学4年生。海と釣りがただ好きというシンプルな想いを超えて、夢にまで膨らませたのは「父」と「一緒」に「遊べる」思い出だったからだ。
その時の喜びをもっと持ちたくて、広げたくて幼き日の僕は将来の夢とした。それを理解できたとたん、体が軽くなった。ゆっくりと心で感動が広がった。
「大好きな人」と「一緒」に「遊べる」ことをしていたいのだ。その舞台と道具は変わって良い。
子供は、もしかしたら与えられることより、「一緒」にすることを求めているのかもしれない。少なくとも僕はそうだった。あなたはどうだっただろうか。
年齢関係なく、好きな人と「一緒」に楽しめる自分で在りたい。
まなざし
ここ数日、掃除・家事をする中、眼差しについて浮かんでくることが多かった。今は、幼き日の自分を理解する月間のようだ。
子供の頃、求めていたのはなんだったのだろうか。モノ(おもちゃ)なのだろうか。モノはわかり易い。親からしても、与えた気持ちになれるし、与えられたモノを手に喜ぶ子供を見てわかる。それは枝葉でしかないのではないだろうか。一番は、親の愛なのではないだろうか。
それは、眼差しからも伝わる。視線はただモノを見ているだけで、眼差しには愛する人へ愛するモノへの「愛」が含まれている。だから愛(まな)差し。愛を差し出す行為だ。
あなたの眼から注がれる愛を通して人は育つ。幹は太くなり、根は深く伸びる。感受性は開き、眼差しを送れるようになる。人の内に在る愛にスイッチを入れる。
今まで、ずっとその眼差しを注がれてきたんだ。
子供を持つお母さんは我が子に対して、恋人がいる人には恋人に、家族に、自分の眼差しを感じながら観てみるといいかもしれない。
愛に溢れた眼差しを送ってくれていたその方々が脳裏に映る。そんな数日だった。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
と言える
純朴さを
大切にしたい
今日が始まり🌈🌈🌈🙌