その向こうの喜びへ
初めての写真展
写真を撮って2年くらいが経つ。
今回、初めて人に見せる機会を与えてもらった。展示会を終えた今、沢山の学びと気づきがあり嬉しさを噛み締めている。
大好きなおじぃをひたすら撮り続け、絞りに絞って80点ほどの写真を真っ白な壁に展示していく。
大きく現像された写真を見て、実感が湧く。
撮った時の感情も蘇る。
今の自分にあるのは、
表現することがしたい。
でも、何を表現したいかまではわからなかった。
展示会でそのぼんやりした部分の確かな答えを気付かせてもらった。
美しさだけではなく、自分の葛藤も正直に写真展で配布されたしおりに書いた。
撮影当初、老いているように感じたおじぃへ不安と心配をした。すると、シャッターを切るたびに大好きなおじぃの不安と心配の部分に共鳴し、彼の痛みをも共有した。身体が動かなくなっていく。途中から、シャッターを切るのをためらうようになった。自分は何を収めたいのだろう。今考えると上から目線で傲慢だったと思う。自分にあった感情を彼に観た。
共に暮らす仲間から、「おじぃは本当に辛いだけかな?その奥にある喜びは見てる?」と問われる。
おじぃが辛い感情を抱いていたのは事実だけど、彼の歴史に心を向けると喜びや誇りがある。そして、今でも素敵だった。
コップに入った水を見て、無い部分を観ていた。水はあった。喜びは、光はあった。
キッチンに立つ、写真を仲間に見せた。
「俺は何をしてきたんだろう?」って写真から聴こえるよ〜。おじぃの事、理解してあげてるかー?と言われた。
理解することで、想いは還る。
言葉を交わし、言葉を交わさずとも彼を理解していく。
彼の笑顔が増えた。
おじぃと孫の関係が対等な存在へと変わっていった。撮るのが喜びに変わる。
そのような過程が写真として展示された。観た方が辛さを感じるのでは?と気になっていた。
辛さを感じた人も居た。そして、喜んでくれた方も居た。
他の展示者の友人が、僕の写真とコメントを読んで涙を流したようだ。
友人の喜びに溢れたメールを僕に見せてくれた。
その愛に溢れたメールを読んで僕も目がうるうる。
やって良かった。
言葉には表せない想いが溢れる。
感動だ。
これだ。これがしたい。
僕が光を見つめようと向き合った過程が、観たその人の中にある何かと共鳴して、涙として流れた出た。
会ったこともない方と心を通わせることが出来た。
主張がしたいんじゃなくて、伝え合うことをしたい。
根本は愛を表現したいんだ!と腑に落ちた。その手段が今は写真。
そして、それはカメラを持っていなくても筆を持っていなくても出来る。
今この場所で出来る。
あぁ〜〜。それやってるわ。今の生活の中でやっていたことに気づく。
やりたいことをしていた。
梅雨なのに雨が降らない。星空が綺麗だ。